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●2026年10月号
■ 毛沢東逝去、文化大革命終結50年
    瀬戸 宏

去る2026年9月9日は中国共産党、中華人民共和国の指導者毛沢東逝去50年だった。中国は国家指導者の生誕××年、逝去〇〇年のような節目の年には何らかの行事を行うことが多い。中国革命・中華人民共和国の指導者だった毛沢東の功績を考えると、逝去50年の本年、数多くの記念行事が行われても不思議ではない。だが『人民日報』など中国の媒体をみても、毛沢東関連報道は何もない。中国共産党中央主催で小規模かつ儀礼的な座談会程度は行うのでは、と私は予測していたが、それもなかった。近く訪れる10月6日は文化大革命終結50年でもある。文化大革命関係の記念行事が行われる可能性はもっと少ない。2026年は毛沢東逝去、文化大革命終結50年という節目の年でありながら、表面的には特記する事件無く過ぎていくようだ。
   
しかし一方では、朝日新聞など日本のジャーナリズムの報道では、9月9日には毛沢東の故郷である湖南省韶山では青年数千人が集まり毛沢東を偲ぶ集会が開かれたという。中国はすでに世界政治・経済に直接影響を与える存在になっている。そして毛沢東や文化大革命は、過去の事象にみえながら現在の中国にも影響を与え続けている。2つの対照的な中国の動きをにらみながら、毛沢東や文化大革命の歴史的な意味を考えてみたい。
   
   

■1. 毛沢東の前半生

毛沢東は1893年12月26日に中国湖南省韶山の農家の家庭に生まれた。実家の建物は記念館になっている。毛沢東は大学に進学することはできなかったが、独学で各種の思想に触れその中からマルクス主義に接近し、1921年7月に湖南省代表の立場で中国共産党第1回大会に出席した。毛沢東は中国共産党の中で次第に地位を高めていったが、1920年代はまだ最有力幹部ではなかった。毛沢東が中国共産党内で頭角を表すのは、1927年第一次国共合作崩壊で中国共産党が武装闘争に転じてからである。
   
1927年9月の湖南省での蜂起に参加し敗北した後、毛沢東は山岳地帯に逃げ込んで革命根拠地を作る闘争に転じた。革命根拠地は次第に拡大していったが、中国の現状を無視したコミンテルン直系中国共産党幹部の誤った指導で国民党に敗北し、1934年9月には根拠地を放棄して敗走せざるを得なくなった。その敗北の過程で1935年1月に毛沢東の中央最高指導部入りが実現した。
   
その後もコミンテルン直系幹部との党内闘争は続くが、毛沢東は最終的に党内闘争に勝利し、毛沢東の指導のもとで中国共産党は中国革命を成功させ、中華人民共和国を成立させた。この革命闘争の過程は中国共産党史で高く評価され、かつては日本でも広く知られ学ばれた。自己が活動する現実から出発する運動論、大衆路線、統一戦線戦術、平易な言語など毛沢東前半生の活動の意義は、今日でも学ぶところは大きいと思われる。
   
ただし毛沢東前半生で注意しなければならないのは、毛沢東の路線・思想がソ連のスターリン体制あるいはスターリン主義の強い影響下で形成されたことである。スターリン体制の特徴は次のように整理することができるであろう。

「スターリン体制は強権的社会建設と異端の排除・粛清を特徴的な手法とし、農業を中心とする経済構造から重工業を中心とする経済構造への急速な転換を課題としていた。民主主義的手法を犠牲にして旧ロシアから残された経済的課題の遂行を進めた結果は、生産力の急速な上昇であった。国民生活も60年代までは急速に豊かになっていった。
   
(中略)
   
だが、その際に採られた非民主的で強権的・暴力的手法は後まで残存するとともに、ソ連のみならず世界の社会主義運動にも浸透し否定的な影響を与えつづけた」(『社会主義協会提言の補強』)。

ロシア革命・ソ連の経験を絶対化するスターリン主義の内容を強く反映した『ソ連共産党(ボルシェビキ)歴史小教程』(ソ連共産党党史)は、毛沢東が中国共産党の主導権を握る整風運動の必読文献とされた。毛沢東はコミンテルン直系幹部を強く批判したが、その批判は、スターリンは正しいが、党内のコミンテルン派はスターリンの学び方を間違えている、というものであった。
   
整風運動の過程では、スターリンの権威と思想はそのまま保たれた。スターリン主義の影響を確認しておかなければ、毛沢東後半生の問題がなぜ起きたのか、理解できない。なぜスターリン主義が中国に持ち込まれ、それが中国革命という形で成功を収めたのか、今日でもなお検討を要する課題である。
   
   

■2. 毛沢東の後半生

中華人民共和国は、建国直後はアヘン戦争以来の帝国主義勢力を中国国内から基本的に追放し、国家・民族の真の独立を達成したとして、中国の民衆から熱狂的に歓迎された。当時の中国は、社会主義体制ではなく新民主主義と呼ばれる体制を標榜していた。その内容は、労働者階級が権力を握っているが、生産力向上のため直ちに生産手段の公有化を行うのではなく、農民には土地を分け与え、都市では私企業の存在を広く認めるというものであった。この政策により、中国は3年で日中戦争や国共内戦で荒廃した経済を立て直し、1952年には日中戦争勃発直前の経済力を回復した。
   
この新民主主義体制は、約20年は続く筈だった。ところが、中国共産党は毛沢東の提起により、新民主主義を打ち切り、過渡期の総路線と呼ばれる社会主義化政策を実行することになった。その具体的政策として、第一次五カ年計画が1953年に始まった。この過渡期も、3つの五カ年計画すなわち15年程度は続く筈だった。この見解は、1955年7月に中国の国会である全国人民代表大会で7月6日に報告、公表され、最終日の7月30日に決定された。ところが、この全人代直後の1955年7月31日に毛沢東は突然社会主義化を急速に早める発言をおこない、この発言は毛沢東の権威もあり中国共産党の公式方針となった。
   
当時の中国は農業国であったから、毛沢東の発言も直接には農業集団化の急速な実現を目指したものであった。しかし都市部の民間企業に対してもやはり社会主義化が実行された。1年後には農地のほぼ全部が高級合作社として国有化され、ほぼすべての民間企業も公私合営という形態で実質的に国有化された。1956年9月に開催された中国共産党第8回大会で、共産党は中国の社会主義化は完成した、と宣言した。
   
新民主主義や過渡期の総路線が当初の予定とは逆に短期で打ち切られたのは、毛沢東や中国共産党に農業集団化、企業国有化は早ければ早い方が生産力を高め社会主義はそれだけ強化される、という発想があったからである。ソ連での1920年代末からの農業集団化、急速な工業化を推し進めたスターリン主義の影響をみないわけにはいかない。
   
中国の社会主義化の勢いは、1958年からは大躍進という経済政策、社会運動に発展した。これは“3年で共産主義社会を実現する”という社会運動である。しかしこの運動は客観条件を無視したものであったため、農村を中心に1千数百万人とも3000万人とも言われる大量の餓死者を出した。このため1962年から劉少奇、�ケ小平が中心となり過度の集団化を緩める調整政策が行われた。調整政策により、中国経済は回復に向かった。
   
だが毛沢東の眼には、調整政策は社会主義を弱体化させ資本主義の復活に導く政策だと映った。そこで毛沢東は文化大革命を発動することになる。
   
文化大革命の発動には、ソ連の動向も深く関係している。1956年2月ソ連共産党第20回大会で当時ソ連共産党第一書記だったフルシチョフがいわゆるスターリン批判を行った。この批判はスターリン個人崇拝への批判に留まるなど不徹底なものだったが、ソ連で社会主義が確立されたとする1930年代の政治経済体制から離れていくことを可能とした。
   
1950年代から1960年代初めにかけて、ソ連経済は経済成長率の鈍化や売れ残り商品の滞貨などの問題に直面し、行き詰まりの兆候を示すようになった。ソ連ではこの行き詰まりを打破するために、企業の自主性の一定の容認、利潤導入などスターリン体制の特徴をある程度改善する政策が取られるようになった。これに対して当時の中国には、このような政策は労働者階級の階級性を弱め資本主義復活に道を開くものだと映った。アメリカなどとの平和共存をめざすソ連の外交政策も、アメリカへの屈服と映った。
   
こうして1963年には中ソ論争が勃発し、中国はソ連をスターリンが確立した社会主義体制を変質させる修正主義と批判した。ソ連を批判する中ソ論争での中国共産党の文献は、中国国内で広範な学習運動がおこなわれた。これによって、修正主義は悪だとする認識が中国国内で広く形成された。この認識は、中国国内で文化大革命の提起を受け入れる理論的社会的基盤となった。中国共産党中央内の対立は一般党員、民衆には知らされず、毛沢東の権威・個人崇拝(中国では個人迷信と言う)は頂点に達した。毛沢東への個人崇拝も文化大革命を実行する社会基礎となった。
   
   

■3. 文化大革命の基本内容

文化大革命(以下、文革と略記)は1966年5月の中国共産党政治局拡大会議と8月の第八期中央委員会十一次全体会議(八期十一中全会)が開始の指標とされている。八期十一中全会で決定された「中共中央のプロレタリア文化大革命についての決定」は文革の内容を次のように規定している。

「資本主義の道を歩む実権派を闘争によってたたきつぶし、ブルジョア階級の反動的学術“権威者”を批判し、ブルジョア階級とすべての搾取階級のイデオロギーを批判し、教育を改革し、文学・芸術を改革し、社会主義の経済的土台に適応しないすべての上部構造を改革して、社会主義制度の強化と発展に役立つようにすること」。

この決定によって、文革は実行の公的な裏付けを得た。中国共産党、政府組織はこれまで修正主義を実行していたとして奪権・解体の対象となり、劉少奇、�ケ小平はじめ多くの幹部が暴力的に批判され迫害を受けた。労働者階級の階級性が極端に強調され、中国伝統文化は旧文化、西側文化は資本主義文化、ソ連などの文化は修正主義文化として全面批判の対象となり、貴重な文化遺産が破壊され、文化・芸術の体現者である作家・芸術家・知識人も残酷な迫害を受けた。極端な平等主義も追求された。
   
文化大革命を実行するために学生を中心に紅衛兵という組織が作られ破壊・迫害の主要な実行者となった。まもなく紅衛兵・造反派内部でその独善性のゆえに組織分裂が起こり、彼らの暴力性によって分裂組織間の対立・武闘が広範に起こり、一時は中国共産党中央も制御不能となった。この社会大混乱は、1968年夏頃から軍隊を投入することでようやく沈静化した。文革犠牲者は死者だけで40万〜200万人と言われる。社会の発展が止まったことはいうまでもない。
   
1969年4月に中国共産党第9回大会が開かれ、軍隊を指揮する林彪が毛沢東の後継者に指名され、文革の目的は達成されたかにみえた。しかしまもなく毛沢東と林彪の矛盾対立が起こり、1971年9月に林彪が毛沢東暗殺を企て失敗したとして飛行機で逃亡し墜落死する林彪事件が起きた。この事件の真相は、今日でも謎のままである。
   
林彪事件以後、打倒され失脚していた旧幹部が大量に復活し、脱文革の動きが顕在化した。これ以後の中国の政治は、脱文革を推し進めようとする勢力とそれをくい止めようとする勢力のせめぎあいとなった。そして1976年9月9日に毛沢東が逝去すると、同年10月6日に毛沢東の後継者に指名されていた華国鋒首相らが四人組と呼ばれる江青ら文革推進派を一挙に逮捕し、文革は終結した。華国鋒らは、文革は正しく四人組がそれを捻じ曲げたと主張していたが、まもなく復活した�ケ小平らによって文革は全面否定され、改革開放政策と呼ばれる今日の中国に通じる路線が実行されていくことになる。
   
かつて私は文革について、次のように述べたことがある。

「大躍進から文革に至る中国共産党の歩みを振り返った時わかるのは、実践の結果よい成果が得られなかった時、その路線に問題があったのではないかと検証するのではなく、路線の実行が不十分だったから成果が得られなかったと総括し、誤りをより拡大し最後には悲劇的な破局に至ったことである。特に毛沢東らにその傾向がみられる。文革の悲劇は、スターリン体制の危機をスターリン主義をより徹底化させることで克服しようとした路線の悲劇と考えることもできよう」
(社会主義研究会編『20世紀の社会主義とは何であったか』p.237、えるむ書房、2001年)。

私の考えは、現在も基本的に変わらない。文革の悲劇の大きな原因の1つは、毛沢東が中国革命の成功という自己の成功体験を絶対化し、自己を特権化したことにあるといえる。毛沢東の後半生の歩みも、私たちが教訓化すべき内容に満ちている、といえよう。毛沢東の生涯の評価は、全面礼賛でも全面否定でもなく、冷静にその功過を分析する必要があることを教えている。
   
   

■4. 中国はどこへいく

「中国はどこへ行く」これは毛沢東が1940年に発表し人民共和国建国以前の代表的論文の1つとされる「新民主主義論」の冒頭の節タイトルである。文革が終結した後、中国共産党は一転して経済建設を基本とする改革開放路線を取り、高い経済成長を実現し、中国国民の生活も極めて向上した。2008年の北京(夏季)オリンピック、2010年の上海万博という国家イベントも成功させ、2010年末には中国のGDPは日本を抜いて世界第2位となった。しかし経済高成長の蔭で矛盾の蓄積も明らかであった。文革路線は人民共和国建国以来の路線の延長の側面もあったが、その急速な転換は中国共産党幹部の思想確信を揺るがせ、自己の権力に対する自制心を失わせ共産党内に汚職体質を蔓延させることになった。第三の歴史決議と呼ばれる中国共産党2021年の十九期六中全会決議や2022年第20回大会報告は、習近平が総書記に就任した2012年頃には表面的な中国の繁栄とは逆に、中国社会や中国共産党には深刻な危機状況が存在していたことを明らかにした。20回大会報告を引用しよう。

「わが国の改革・発展・安定が多くの避けて通れない深層部の矛盾に直面し、党建設、とくに党風・廉潔政治建設と反腐敗闘争はさまざまな根深い問題、多発する問題に直面し、外部からの抑圧・阻止はいつエスカレートしてもおかしくない。わが国の発展は戦略的チャンスとリスク・課題が併存し、不確実・予測不能な要素が増える時期に入り、さまざまな“ブラックスワン(予想外の出来事)”“灰色のサイ(隠れている危険の顕在化)”は随時起こりうる」(第3節)。

経済不況、青年の就職難、少子高齢化など現在の中国が抱える多くの問題は、もはや明らかになっている。冒頭で述べた毛沢東逝去50年への中国共産党の沈黙は、貧しいが基本的に国民が平等であった毛沢東時代の社会構造への想起に、現在の中国共産党中央が警戒を感じていることの現れであろう。一方、一部とはいえ青年の毛沢東追悼は、過去への郷愁・理想化や青年を立ち上がらせることで社会矛盾を解決しようとした文革期毛沢東の手法への密かな共感があるのであろう。中国はどこへ行くのか。この問いに直ちに答えるのは困難だが、中国の現在と今後を見守り続けたい。
   

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